
アルバイトライフ
右ページが英語で左ページは日本語で書かれている本は、地理、歴史から政治、経済、社会、文化まで日本についての基礎知識がひととおり載っている。
T氏とお目にかかったのは一二年前のことである。
T氏がT大学元学長のS先生が主宰される会に、講師としていらしたのがきっかけである。
しっかり人生の目標を持ち日夜歩み続けていらっしゃる様子に生きざまとは何かということを深く考えさせられT氏は二十歳から二十九歳まで戦闘機に乗って戦い、五千時間という飛行時間を持つ優秀なパイロットだった。
特攻隊要員である少年飛行兵や学徒兵の教官でもあり、昭和二十年八月十四日には、自らが特攻命令を受けている。
終戦となりその命令は解除となったが、多くの戦友、多くの教え子達、そして、敵兵に至るまで多くの命を奪ってしまったとの、心の葛藤はいかばかりであったろうか。
一ヶ月間、自宅の二階に閉じこもり遺品を見ながら涙していたという。
それから五十七年、「私は、精神的にはいつも操縦拝を握って戦ってきました。
平和の特攻隊として…」とおった。
そして、ここから田形氏の、戦後の戦争犠牲者の慰霊をしてはならないという命令も聞かず、慰霊をしながら戦友や教え子の真実の姿を伝える旅が始まった。
特攻隊員達の真の姿を残さればと思い、戦争中に従軍記者であり、特攻隊達を何度も見送ったという、特攻隊に理解の深いY氏を訪ね「特攻隊員の真の姿を後世に残したいのです。
彼らの心を本に書いて下さい」とお願いしたところ、Y氏は「TやOは、歴史ものだから書ける。
僕が書けば、Y特攻になってしまう。
それは、教官であり命令も受けた経験のTA君の特攻とは違ってしまう。
一生かかってもいいじゃないか。
へたがいいんだよ。
ありのままを書きなさい」とおっしゃり、その後も色々と指導して下さったという。
そして初めて書いた文が本に掲載された。
何度もY氏に朱で筆を入れていただき書き直したという文章を読ませていただいたが、ラブレターまで代筆してもらっていたとは思えない出来栄えである。
ひえんその後、Y氏に序文をいただき、Aより本を出版。
十年間、Y氏に指導いただき、その問に四冊の本を出版されている。
しかし、そのT氏には、もう一つの悲願があった。
映像で真実の特攻隊員の心を残しておきたい、という悲願である。
三十年前にW監督と特攻隊の映画を製作する計画をしていたようだが、監督の死により志半ばで中断に追い込まれてしまったそうだ。
しかし、ふとした縁で三年前に「なぜ、今ごろ特攻隊なのかなぁ」とは思ったが、高校生のころY神社の遊就館に見学に行った時、特攻隊で亡くなった方々の遺影を見ながら「神々しくて美しい瞳のお兄さん達だな」と感じたことを思い出し、お引き受けすることにした。
「特攻隊ですって。
そんなことに関わるのは止めなさい。
そういう時代ではないでしょう」「右翼と思われるよ。
あなたの活動にマイナスになりますよ」と心から心配し、忠告してくれる友人もいた。
そう思う方がいるのも無理はない。
戦後、特攻隊員たちは戦争悪の代表のように語られ、イメージは暴走族であり、無理やり逝かされた可哀相な人という存在になっていたからだ。
平和である今の時代からは考えられない、無情でむごい作戦には違いない。
どこに、自分の息子の死を喜ぶ母がいようか。
両親は、胸がかきむしられる思いであったであろう。
私自身も、嫌で死にたくないと思っていた若者もいただろうなぁ…と思っていたが、当時はとのお話に武士のようなM総監督と出会い、活動が復活したという。
T氏とお目にかかったのは、そんな時期であった。
「事務局のお手伝い、していただけませんか」多くの青年がパイロットになりたくて志願したという。
志願しても百人に一人しか適性検査に合格せず、戦争末期でも適性検査は相変わらず難関であったという。
そして、合格しても訓練で連日、死者が出る。
そのような状況下、毎日死と向き合っているような局面で命令を受け、「死ぬのはいやだなぁ…」とはたして思っただろうか。
志願の時点で、覚悟は出来ていたのではないだろうか。
彼らは、一つしかない大切な命をかけて戦い逝った。
命令を受けた特攻隊員達は、淡々と何の気負いもなく任務についたという。
もちろん、その間の葛藤ははかり知れないが、必ず死ぬという任務の前には、自然と同化した無の境地であったろう。
本人よりもむしろ、燃料を入れる人、整備士や見送る人の方が涙、涙、涙であったそうだ。
死を前にした人に、いったいどんな言葉をかけられようか。
私は戦争映画は好きではないので、観ることはなかった。
その私が特攻隊員の映画のお手伝いをすることには少し無理があるかもしれないとも思ったが、とにかく活動は始まった。
まず、当時の体験者のお話をお聞きし、署名をいただくことになった。
しかし、知識のない私にとっては、お話を聞くだけでも一苦労だ。
戦場の地図がわからないため、地名を言われてもイメージが湧かない。
お聞きしても、話は半分も伝わらない。
ただ、皆の強い思いだけは、体の中に染み込んできた。
体験談は壮絶であった。
特に十年以上、操縦樟を握って戦った経験のある上野村のK村長の言葉は、含蓄のあるもので印象的だった。
八十六歳というご高齢にも拘らず、全国の町村長会長として活躍されていた方だ。
現在も再当選され現役で頑張っていらっしゃる。
K村長は、「特攻隊は、戦争中は大切にされ終戦後は戦犯扱いであったのです。
犠牲を払った人を忘れてはいけない。
今、国家を心配する人がいるだろうか。
特攻精神を学んでもらいたい。
紙の上の点数が良くても、何にもならない。
それは、死線を越えると良くわかる。
厳しさを体験させなくては、子供は育たない。
おとぎばなしも読んであげていないが、勧善懲悪の中で心が育っていくのです。
特攻隊員の中には、立派な人が沢山いました。
その生の声を伝えて欲しいです」とおっしゃる。
おとぎばなしの教育論も聞かせていただいたが、同感であった。
また、大家族の素晴しさに触れて欲しいと、村の子供達をカナダにホームステイさせる等、心の行政活動にも力を入れているという。
戦後も日本のため地域のために精神的に戦っている様子は魅力的で、心を動かされた。
そして、私の目に飛び込んできたのが昭和十六年十二月十四日の見出しである。
「えっ!」アリゾナとは、確か今もパールハーバーの海軍基地の海底に沈む戦艦のことか。
十二月十四日といえば、いわゆる真珠湾攻撃の後だ。
四、五日経っているが…。
私は、六年ほど前ハワイに遊びに行った時、物見遊山の軽い気持ちで、そのパールハーバーに行ったことがある。
今考えると申し訳ないことだが、遊びの延長で立ち寄ったそのハーバーが真珠湾攻撃の地であることなどは、すっかり忘れてしまっていた。
現地が海軍の中であることに、まずびっくり。
館内を一巡り…。
そこまでは普通の記念館と一緒であるが、上映された映画を見てまたびっくり。
当時の映像であるが、英語であるのにJAPAN!JAPAN!の鋭い語調が耳に痛い。
わけのわからない燃えるような衝撃が体中を襲った。
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